せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

和田岬を訪ねて(前編)

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秋も深まり、冬の気配を感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

大開駅

今回のスタートは大開駅。周辺は下町風の雰囲気と市街地が入り混じったような街並みが広がっています。

和田岬線

JRの高架と阪神高速をくぐると線路沿いに出ました。この線路は兵庫駅和田岬駅を結ぶJR山陽本線の支線の通称「和田岬線」です。この路線は工場への通勤輸送に特化しているために日中には列車の運行はなく、訪問時は線路が静かにたたずんでいるだけでした。

和田旋回橋

和田岬線沿いに歩いていくと、兵庫運河新川に差し掛かりました。運河を渡る和田岬線には古風な橋梁が架かっています。こちらは和田旋回橋。その名の通り新川を航行する船舶が橋梁部分を通過する際には旋回する構造になっていました。現在は固定化されていますが、中央の橋脚が円柱状になった変わった造りはそのままです。

和田岬線は山陽本線の前身の山陽鉄道が資材搬入用に設けた路線をルーツとし、貨物線としての開業はなんと明治23(1890)年のこと。本線がまだ岡山にも達していない頃に和田岬まで鉄道が通じていたことになります。開業当初は今に残る兵庫~和田岬間の路線の他に新川に沿って東の新川駅や和田岬から先の三菱重工の工場への貨物線などを擁していました。戦前・戦中のピークには多くの通勤客や貨物で賑わったそうです。

鐘紡前駅跡

和田旋回橋を眺めてから線路に沿って歩いていくと、踏切の際に奇妙な空き地を発見しました。こちらは鐘紡前駅の跡です。現在は兵庫と和田岬の二駅しかない和田岬線ですが、かつては工場従業員のために中間駅を設けていました。

和田岬の客貨で非常ににぎわった和田岬線ですが、工業地帯の真ん中を走ることがあり昭和20(1945)年の神戸大空襲では大きな被害を受けました。この時、鐘紡前駅の駅名の由来になった鐘淵紡績の工場は壊滅的な被害を受けて休業、現在は工場の診療所が神戸百年記念病院として残るのみです。空襲の被害に加え、工場従業員の利用がなくなったことで鐘紡前駅も休止となり、戦後、正式に廃止されました。現在は線路際にわずかな痕跡が残るのみです。

和田岬駅

鐘紡前駅跡からノエビアスタジアムを眺めながら歩いていくと、程なく終点の和田岬駅にたどり着きました。以前は駅舎があったのですが、現在はわずかな上屋があるのみ。和田岬線では兵庫駅で改札を行なうため、自動改札機すらありません。

戦後も工業地帯の輸送手段として活躍した和田岬線ですが、後に貨物輸送が廃止され、朝晩に通勤客のための列車が走るのみとなりました。それでもローカル線と違い通勤利用はまだまだ多く、平成13(2001)年には電化が為されて電車による運行となりました。

和田岬駅前

駅前にはマンションや民家が建ち並び、その向こうには広大な三菱重工の工場が広がっています。この位置にはかつて三菱重工の工場への貨物線が伸びていて、神戸市電和田線が貨物線を乗り越える跨線橋を設けていました。市電が工業地帯を見下ろして陸橋を行き来する光景は和田岬の名物だったようです。
現在はどちらも姿を消しましたが、地下には神戸市電和田線の代替と言うべき地下鉄海岸線が通っています。三宮に直結するこの地下鉄の開業で和田岬線の存廃が噂になったこともあるようですが、噂は噂だったようで、現在も工業地帯の足として運行を続けています。

和田岬駅からは周辺を歩いてみることにしました。

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