せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

相楽園を訪ねて(前編)

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行楽日和が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

地下鉄県庁前駅

今回のスタートは地下鉄西神山手線県庁前駅
大倉山~新神戸駅間では、道路幅員の影響で西神山手線は上下線が重なる二段構造となっており、ちょっと独特の景色となっています。

相楽園正門

駅から山手側に歩いていくと姿を現したのがこちらの重厚なつくりの門。
お寺か大邸宅かと驚くところですが、こちらは相楽園という公園です。この立派な正門は明治時代の建築で総ケヤキ造とのことですから、寺院の山門とあまり変わりません。

蘇鉄の道

園内の通路は意外と入り組んでいて複雑です。数々の植物が植えられているのですが、中でも目立つのは蘇鉄で、相楽園はかつては別名「蘇鉄園」などとも呼ばれていたそうです。

旧小寺家厩舎

園内を歩いてくと姿を現したのがこちらの「旧小寺家厩舎」です。蘇鉄の林の中に急に現れた洋風建築に驚いてしまいますが、こちらは馬車の車庫と厩舎の従業員の宿舎を兼ねた建物だったとのこと。それにしても、この建物の名前になっている「小寺家」とは一体…?

相楽園は三田藩士・小寺泰次郎が私邸として築いた小寺邸の跡地に設けられた公園です。「小寺」と聞くと黒田官兵衛の主君だった御着の小寺氏か!? と条件反射的に思ってしまうこの頃ですが、調べてみると御着の小寺氏とはあまり関係がなさそうです。では、小寺泰次郎とはどのような人物なのでしょうか。
泰次郎が仕えていた三田藩の藩主は代々九鬼氏が務めていました。九鬼氏といえば、紀州や志摩を拠点に活動し、後に織田信長に仕えた九鬼水軍の九鬼です。関ヶ原の戦いの後、水軍の力を恐れた幕府は九鬼氏に内陸の三田へ領地を与えました。水軍の力を失った九鬼氏ですが、だからこそでしょうか、藩士の教育には非常に熱心で、白洲次郎の祖父の儒学者で家老を務めた白洲退蔵をはじめ、多くの人材を輩出してきました。明治維新後、当時の九鬼家の当主・隆義福沢諭吉の勧めもあって今後発展が見込まれる開港地・神戸に移り住み、数々の事業を起こしました。泰次郎はこの時隆義が設立した商社「志摩三商会」の役員の一人でした。

厩舎を見上げる

厩舎を見上げると秋空が広がっていました。厩舎という用途の割におしゃれなこの建築と青空はよく似合いますね。

小寺泰次郎は三田の足軽町の生まれで、文字通りの足軽の家柄です。しかし、計算能力に長けていたために代官として取り立てられ、藩政改革に力を貸すことになりました。後に設立された志摩三商会でも中心となって活躍し、事業によって成した財で九鬼家の所有だった土地の一部を所有するようになり、この地に大規模な私邸を築きました。

旧ハッサム邸

旧小寺家厩舎と隣り合うようにして建つ洋館は旧ハッサム邸です。インド系イギリス人貿易商のハッサム氏が北野に建てた異人館で、昭和38(1963)年に保存のために相楽園へ移築されました。何だか、もとからこの場所にあったかのようにこの庭園に馴染んでいますね。

相楽園ができた背景には開港地・神戸の歴史がありそうですね。もう少し、園内を歩いてみましょう。

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