せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

立川を歩いて

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猛暑の日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

神戸三宮バスターミナル

今回やってきたのは三宮はミント神戸の下にある神戸三宮バスターミナルです。
近畿各地や四国方面、夜には関東・九州方面へのバスが発着する神戸一のバスターミナルです。今回、このターミナルから乗るのは山陽バスが運行する「レッツ号」こと「神戸・大阪・京都~立川線」。白地に朱色と金色をあしらったバスがのりばにやってきました。

立川へ

新名神・東名高速
を経由して、翌朝、立川に到着しました。
もはやここは武蔵国。摂津でも播磨でもないのですが、山陽バスが走っている以上、「山陽沿線」には違いありません!

広大な草地

高層ビルが立ち並び大都市の雰囲気のある立川駅前ですが、駅前から少し歩くと広大な空き地が広がります。

この空き地は、かつての在日米空軍立川航空基地の跡地で、さらにその前は日本軍の立川陸軍飛行場でした。立川に飛行場が築かれたのは大正時代のこと。大正11(1922)年に国鉄立川駅北側の空き地に広大な飛行場が建設されました。その後、陸軍の飛行場として活用されてきたのですが、昭和初期のまだのんびりしていた時代には民間飛行場としても使用されていました。このとき、立川に就航したのは日本初の民間航空会社とされる日本航空輸送なる会社で、立川~大阪間に週12往復が運航されていたそうですから、それなりの高頻度です。ただし、まだ現代のような大型機が就航していない時代です。航空運賃は非常に高額であったことでしょう。のちにこの日本航空輸送は東京側の拠点を立川から羽田に移すことになり、立川に就航していたのはわずかな期間でした。

ヤギが…

広大な草地の中ではヤギが草を食んでいました。
放牧…というわけではないようで、空き地の除草のために放し飼いをされているとのこと。

戦争が始まると、立川飛行場は本来の目的の軍事拠点として、東京の防衛の要として重要な役割を果たすようになりました。周辺には航空関連の機器を製造する工場が建ち並び、立川は軍都として発展することになります。しかし、その代償というべきか、昭和20(1945)年4月の立川大空襲を始め、終戦間近には激しい攻撃にさらされることになりました。終戦後、飛行場は米軍に接収され、拡張を経て立川航空基地となりました。

昭和記念公園

極東の拠点として整備された立川航空基地ですが、周辺住民の反対などで拡張工事を行うことができず、次第に機能を近接する横田基地に移管し、昭和52(1977)年には完全に日本へ返還されました。敷地の一部は陸上自衛隊の立川駐屯地となりましたが、多くは民間利用されています。
現在、飛行場跡地は再開発され商業施設やマンションが立ち並んでいますが、一部は昭和天皇の在位50周年を記念する昭和記念公園として整備され、広大な緑地は立川市民だけでなく東京都民の憩いの場となっています。関西では万博記念公園あたりが似たような雰囲気ですが、万博記念公園よりもはるかに建てこんだ街中にこれだけの緑地があるのは、何だかすごいというか贅沢な景色ですね。

ここ、立川からは多摩近辺を歩いてみたいと思います。

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