せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

西の比叡山・書写山圓教寺へ(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回・前々回に引き続き、書写山圓教寺を巡っていきたいと思います。

十地坊跡?

「西谷」の外れの林の中にこんな案内がありました。矢印の先には急な山道が続いていますが、ここは執念で上ることにします。

十地坊跡地

山道をのぼりつめてたどり着いたのが防火用貯水槽のある空地。
急に現代的なものが現れて拍子抜けしてしまうところですが、貯水槽の壁面には戦場の陣幕のようなものが張り付けてありました。こちらは「十地坊」と呼ばれ、羽柴秀吉・黒田官兵衛が播磨攻めの際に設けた陣地の跡と言われています。

秀吉と官兵衛がこの地に陣を築いたのは天正6(1578)年のこと。前年の加古川評定の決裂により、別所氏をはじめ播磨の諸侯が毛利派につき秀吉軍に反旗を翻したため窮地に立たされていました。西の毛利、東の別所に対抗するため、官兵衛の進言により、秀吉軍は見晴らしがよく施設の整った書写山に陣を移しますが、驚いたのは書写山の僧侶たち。兵糧の提供するなどで寺を守っていたところへ押し寄せてきた大軍に信長の「比叡山焼き討ち」の再来かと上へ下への大騒ぎになったそうです。秀吉の命で僧侶を殺害することはなかったものの、一部の兵士によって仏塔やお堂が破壊されてしまいました。

十地坊から置塩城を眺める

陣幕の正面は木が伐採されていて、景色が見えるようになっていて、麓の菅生川沿いの集落が望めました。正面の山は置塩山と呼ばれる山があります。この山の上には播磨守護・赤松氏の子孫の赤松則房が城主を務めていた置塩城がありました。秀吉軍に従った赤松則房は西を監視する役割を担い、書写山の秀吉軍とは狼煙などで連絡を取り合っていたそうです。

本多家廟屋

再び三之堂の並ぶ広場に戻ります。
広場の端に土塀で囲われた一角がありました。こちらは江戸時代の初めに姫路城主を務めた本多氏の墓所です。戦乱の世が終わると圓教寺は歴代の城主の庇護を受け、西の比叡山として広く信仰を集めることになりました。明治以降は荒廃し、摩尼殿が焼失するなど苦難の時代を経ることになりますが、山上の中世の雰囲気を残す堂宇は趣があり、先述のように、現在は信仰だけでなく観光名所としても広く注目を集めるスポットになっています。

山上駅から

帰途にロープウェイの山上駅から麓を眺めてみました。
書写山圓教寺の見どころはまだまだ多く、ブログ上ですべてを伝えるのはなかなか困難です。
関心を持たれた方は是非、ロープウェイに乗って書写山圓教寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

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