せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

城下町・明石を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、明石の街を歩いてみたいと思います。

柿本神社

天文科学館の裏から石段を上ると柿本神社に到着しました。
天文科学館ができる前はこの柿本神社と明石城が明石のランドマークでした。
今でも、山陽電車の車窓などからは結構目立つ存在です。

柿本神社は飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂を祭った神社です。古くは「人丸神社」、通称「人丸さん」と呼ばれ、山陽電車の人丸前駅の駅名もこの神社に因んでいます。
柿本人麻呂の経歴はあまりわかっておらず、生没年等も不明です。ただし、すぐれた歌が現代にも伝わっていて、平安時代の和歌の名人・三十六歌仙に数えられています。
この地に人麻呂を祭る神社が建立されたのは仁和3(887)年と言われ、今もこの神社の隣に佇む月照寺の覚証という僧侶が人麻呂の墓とされる塚の上に祠を設けたのが始まりとされています。ただし、どうも、この辺りが諸説あるようで詳しいことはわかっていないようなのですが、いずれにしろ、この神社は明石に街が生まれるはるか以前からこの地を見下ろしていたのです。

亀の水

柿本神社から人丸山を下ると、「亀の水」と書かれた水場を見つけました。
こちらは江戸時代から湧き出す水場で、「明石の名水」と呼ばれています。当初は柿本神社の手水として設けられていたそうです。

明石城へ

「亀の水」から明石駅を経て辿り着いたのが明石城。明石のシンボルのお城です。
記事の取材時にはなかったのですが、10月7日から幻の天守閣がイルミネーションによって現れるイベント「明石城イルミネーションプロジェクト」が開催されています。関心のある方は是非どうぞ。

小笠原氏によって整備された明石の城下町とお城ですが、その後、江戸時代の初期にかけて諸般の事情から頻繁に城主が変わります。しかし、天和2(1682)年、城主だった本多氏が陸奥岩瀬藩へ転封となったのちに越前から移ってきた松平直明が城主となってからは安定することとなり、松平氏が治めるまま明治維新を迎えることになります。明治維新後の廃城例で廃城となりますが、その後、明石公園として整備され、現在は市民の憩いの場となっています。

坤櫓

訪問時はちょうど坤櫓が公開中でしたので、中を拝見することに。
こちらの坤櫓は京都・伏見城から移築された建物とされ、 唐破風の上に千鳥破風を重ねた珍しい造りです。破風の格子が朱塗りで、豪華な造りだったことを偲ばせます。明石城には天守閣が設けられなかったとのことで、この坤櫓が天守閣の役割を果たしたと言われています。

城跡からの眺め

城跡からは明石駅と明石の街並み、淡路の山並みが一望できます。
今となってはここ明石にお城と町がここにあるのが当たり前のようになっていますが、前回、少し触れたように明石城とその城下町がこの地に生まれたのはこの人丸山のおかげです。
では、もともとのお城はどこにあったのか…?

明石城、その前について迫ってみたいと思いますが、それはまた改めての機会にします。

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