せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨のお城めぐり その3~利神城と平福の街並み

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こんにちは、玄蕃允です。

前回の続きで、山陽姫路からさらに西に足をのばして、播磨の国の西端・佐用町のお城めぐりをしてきました。佐用町は黒田官兵衛ゆかりの地として、三城を押しているようです。

今回は利神城(りかんじょう)です。

公共交通機関では、智頭急行の平福駅が最寄りとなります。駅のすぐ裏手が利神城跡になりますが、山城で現在崩落危険な箇所があるため、城跡まで登山できません。

平福駅


平福駅は近畿の駅百選に選ばれているそうで、立派な駅舎が建っています。

平福は江戸時代前は利神城を中心とした城下町として、江戸時代に入ってからは姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の宿場町として、参勤交代や物流で栄えました。

この利神城ですが、池田輝政の甥・池田由之が姫路城の支城として入ります。「雲突城」とも称されたそうで、麓からでもその美しさがよく分かります。

利神城


間近で見ることができないのが、残念です。竹田城が有名になりましたが、匹敵する美しさではないでしょうか。

もともとは1349年に赤松氏の一族の別所敦範が築城しました。戦国時代に入り、別所氏は播磨に侵攻する織田方に一度は従いますが、播磨の領主たちがつぎつぎと織田を見限り、中国地方の毛利方に従う中でそれに追随します。織田方の上月城主・尼子勝久と山中鹿之介が利神城を奪いますが、毛利氏が上月城を落とし、利神城はその時毛利方であった宇喜多氏の城となります。

関ヶ原の戦い後、池田氏が播磨を与えられますが、輝政が姫路城に、甥の由之がこの利神城に入りました。

由之は城の大改修に着手し、三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築きました。また、城下町を整備し、武家町や街道沿いに町人地を設けました。輝政はその豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じたとされます。

平福の街並み


江戸時代以降、平福は因幡街道最大の宿場町として栄えます。

瓜生原家


江戸時代の町屋が残っています。瓜生原家は鋳物業を営んでいたそうで、1810年に建てられました。

本陣跡


本陣は宿場町で大名や旗本などが宿泊所として指定した家になります。

陣屋門


陣屋門ですが、1万石以下の小藩の城は陣屋と呼ばれ、その邸宅の入口の長屋門を陣屋門といいます。平福は利神城廃城後に松平氏5千石の旗本領となり、代官支配となりました。この陣屋門は1864年に時の代官が建築したものです。

佐用川


佐用川沿いに建物が建てられていて、非常に美しい景観が広がります。

城下町と宿場町の名残りが残る平福の街並み。ぜひ足を運んでみてください。

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