せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨の法隆寺・鶴林寺を訪ねて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、「播磨の法隆寺」こと鶴林寺を歩いてみたいと思います。

宝物館

境内の隅には鉄筋造りの大きな建物がありました。
この建物は宝物館で、館内では鶴林寺が所蔵する文化財や太子堂の壁画のレプリカが展示されています。
また、現在は「黒田官兵衛と鶴林寺」と題した特別展示が行われています。

中世には30余りの寺坊に2万5千石もの寺領を有し、大寺院となった鶴林寺ですが、やがて戦国時代の動乱に巻き込まれていくことになります。近隣の大寺院で、一向宗の拠点となっていた英賀本徳寺は秀吉の軍勢に滅ぼされ(詳しくはこちら)、書写山圓教寺は三木合戦の拠点となり戦に巻き込まれていったのに対し、鶴林寺は黒田官兵衛の説得によって秀吉に寺領を献上し保護されたために直接戦いに関わることはありませんでした。そのおかげで、貴重な建築物や文化財は戦火を免れました。ただし、その後、江戸時代にかけても寺領の縮小は続き、今の規模になりました。

宝物館の特別展で展示されているのは黒田官兵衛や父・職隆の書状です。
書状には官兵衛が播磨を離れ豊前中津へ移った後のものもあり、深いつながりをうかがわせます。

護摩堂

宝物館の前にあるのは護摩堂
鶴林寺は天台宗の寺院であるため、このようなお堂があります。
こちらは永禄6(1563)年の建立といわれ、播磨攻め開始の直前にできた建物とのこと。

境内の鳥居

境内を歩いていて発見したのは小さな鳥居。
寺院の境内に鳥居とは何だか不思議な景色です。
ここだけ何だか空気が違い、静かな境内の中でもより静かに感じます。

行者堂

鳥居の奥にあるのは行者堂です。
神仏習合の時代には山王権現が祭られた神社だったのですが、明治の神仏分離令により役行者像を安置するお堂となりました。
小さな建物ですが、応永13(1406)年の建築とされ、鶴林寺に現存する建物では最古のものと言われています。
今、こうしてこのお堂を眺めることができるのも、黒田官兵衛のおかげなのかもしれません。

まもなくお盆休みの方も多いでしょう。
夏の休みには加古川の鶴林寺で寺の長い歴史や寺を守った黒田官兵衛に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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