せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

淡路島の城下町・洲本を歩いて(前編)

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まだまだ梅雨空が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。

山陽高速バス学園都市・洲本線

今回は舞子公園駅の真上にある高速舞子バス停から山陽高速バスに乗って淡路島へ。
高速バスで一時間少々、洲本市の中心にある洲本高速バスセンターに到着しました。

天守閣を見上げる

洲本は淡路島の中核都市で、「平成の大合併」で淡路市と南あわじ市が成立するまでは唯一の市でした。洲本の市街地がある地域は洲本川の流れによって形成された扇状の平野が広がり、起伏に富んでいる淡路島の中で珍しく開けています。
今回目指すのは市街地を見下ろす三熊山にある洲本城です。洲本高速バスセンターから見上げると、山の頂きに天守閣が小さく見えました。

三熊山を登る

山麓にある洲本八幡神社からはひたすら山道が続きます。
なかなかハードな登山ですが、山道の途中には洲本城の石垣があり、興味深い道中です。

洲本城は室町時代の終わりの大永6(1526)年に三好氏の家臣で紀州熊野水軍の頭領・安宅治興がこの地に城を築いたことにはじまります。当時、安宅氏は由良城(現・洲本市由良町)に本拠を置いていて、洲本城は島内8ヶ所に築いた城の一つに過ぎず、築城当初は簡素な山城であったと言われています。
この安宅氏の支配は長く続かず、天正9(1581)年、三木城を落として中国攻めの兵を進める羽柴秀吉淡路追討によってあっけなく討ち滅ぼされてしまいました。この時、城主・安宅清康を討ち取ったのが黒田官兵衛だという説があります(諸説あるようで、真相は不明です)。調略を得意とし、犠牲を最小限にして戦果を挙げる官兵衛にしては意外なエピソードですが、この安宅清康は官兵衛が自ら手をかけた数少ない人物とも言われているようです。この時に使用した刀は黒田家所縁の地・備前福岡(詳しくはこちら)の隣の備前長船で作られたもので、後に「安宅切り」と呼ばれるようになったとのこと。

山頂の城跡

高速バスセンターから30分ほどで城跡に到着。
山頂に突然、立派な石垣が現れてちょっと驚いてしまいます。
にしても、思ったより近いような…。

洲本城の模擬天守閣

意外と近い秘密は、この天守閣。
近づいてみると何だか小さい!? どうやら、遠近法を利用した単純なトリックだったようで、城自体はそれほど遠くにあるわけではなかったようです。
明治維新で洲本城は廃城となり建物は取り壊されてしまいますが、昭和3(1928)年に昭和天皇の即位を記念して鉄筋コンクリート造りの天守閣が復元されました。江戸時代までの天守閣とは異なる姿ではありますが、模擬天守閣では日本最古のものです。
戦前に模擬天守閣とはちょっと意外な気がしますが、同じ時代に、やはり昭和天皇の即位を記念して大阪城の復元天守閣が築かれたことや、東京の九段会館愛知県庁名古屋市役所、旧満州国の諸官庁等で城郭を模した近代建築(帝冠様式建築と呼ばれています)が流行したことを考えてみると、それほど不思議ではないような気もします。そんなことを考えていると、小さな模擬天守閣が急に大きく見えてきました。

山頂で一息ついてから、引き続き、城下町・洲本を巡っていきたいと思います。

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