せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

大和盆地を見下ろす信貴山へ(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
前回に引き続き、信貴山を巡ってみます。

朝護孫子寺本堂

信貴山で有名なものといえば平安時代後期に描かれたとされる国宝『信貴山縁起絵巻』です。
「飛倉の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の三部からなる絵巻は、寺の縁起というよりはこの寺の中興の祖と言われる命蓮上人にまつわる説話を描いたものですが、当時の人々の姿が生き生きと描かれ、見応えがあります。
境内の霊宝館ではこの『信貴山縁起絵巻』のレプリカを見ることができます。

この『信貴山縁起絵巻』の「飛倉の巻」では命蓮上人が空飛ぶ鉢を使って托鉢を行う様子が描かれています。托鉢を嫌がった長者が鉢を蔵の中に閉じ込めたところ、鉢は蔵ごと浮き上がり、たくさんの米俵を率いて信貴山へと飛んで行きました。蔵を追い掛けてきた長者に命蓮上人は慈悲の心を説いたとされます。ちなみに、播磨を中心に多くの説話を残す法道上人も同様に空鉢の術を使っていたと言われています。

空鉢護法堂

この空鉢の法は龍王から授かった術と言われ、信貴山の奥には龍王を祭る空鉢護法堂があります。案内に従って向かってみることにしました。険しい山道を上りつめてお堂に着いたころには疲労困憊ですが、かなり山の上に来ただけあっていい眺めです。

信貴山城跡碑

空鉢護法堂の近くにはこんな石碑がありました。
信貴山城は現在、空鉢護法堂がある信貴山雄嶽(おだけ)を中心に築かれた山城です。城が築かれたのはかなり古く、現代でも眺めがいいことからわかるように、大和盆地を見下ろす重要な城として整備が続けられました。
戦国時代には木沢長政松永久秀が築城入城、山上には四層の天守閣が設けられ、大和の拠点として整備拡張が行われました。松永久秀といえば主君の三好長慶に謀反を起こしたり、将軍足利義輝暗殺の首謀者などという説もあり、「乱世の梟雄」と呼ばれる悪役…と言いたいところですが、史実を確認すると信憑性に乏しいようで、多くは後の創作と言われています。
織田方についたものの、本願寺攻めから離脱して裏切った久秀は天正5(1577)年、信貴山城に籠城し、信長軍と攻防戦を繰り広げました。しかし、信長軍の猛攻撃で城は落城。久秀は信長が所望していた茶釜「古天明平蜘蛛」に火薬を詰めて爆発させ自害しました(諸説あるようなのですが、大河ドラマ「軍師官兵衛」ではこの説を採用していましたね)。
その後、信貴山城は廃城となり、大和の拠点としての役割は失われましたが、今でも周辺には石垣の痕跡などを見ることができます。

信貴山の眺め

恐ろしい歴史があったのが嘘のように、信貴山からの眺めは穏やかです。
この空鉢護法堂の他にも信貴山の山内には多くの特色あるお堂があり、回りきるのが大変なほど。梅雨の晴れ間には、パワースポット巡りと歴史散策ができる信貴山の散策はいかがでしょうか。

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