せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

運命の軍議・加古川評定の地を歩いて(後編)

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こんにちは、内膳正です。
前回に引き続き、加古川を歩いてみたいと思います。

加古川の街中で見つけた銭湯

称名寺から加古川の街中を歩いていると、趣のある銭湯を見かけました。
古い建物のようですが、破風の入った正面が立派です。
周辺に肉屋が多いのも、 畜産が盛んな加古川らしい景色です。

加古川に糟屋氏が城を築いたのは鎌倉時代のこと。代々加古川城の城主を務めていた糟屋氏が関ヶ原の合戦の後に途絶えてから加古川城は廃城となり、加古川は城下町ではなくなりました。
その後は江戸時代まで西国街道の宿場町として栄えることになります。
大きく変化したのが明治以後。
この地に日本毛織(ニッケ)の工場が立地し、また、昭和にかけて沿岸部に大規模な工業地帯が造成されたことで加古川は工業都市として大きく発展することになりました。

看板建築

街中にはこんな建物が。
正面から見れば洋館風ですが、背後は一般的な店舗兼住宅という造りで、「看板建築」と呼ばれています。 こうした建築は関東大震災の後に東京で造られるようになり、全国に広まっていったようです。

教信寺

国道2号線を東へ歩いていくと、いかにも昔の道という雰囲気の道路を見つけました。 どうやら、旧西国街道のようです。その道を歩いていくと現れたのが教信寺という天台宗の寺院。

教信寺の境内

静かな寺院ですが境内は広く、桜の木が何本も植えられています。春になれば絶好のお花見スポットになりそうです。

教信寺は教信という僧が承和3(836)年に開いた寺です。この教信は称名念仏の創始者で、平安時代にこの地にあった賀古の駅家で荷運びなどをしながら教えを広めていたそうです。その教えは後に一遍や親鸞の思想にも影響を与えたようで、日本の仏教思想の中では結構重要な人物のようです。この教信寺は教信の庵があった場所に建立され、一時は堂宇や僧坊をいくつも構える大寺院だったそうです。

信長の播磨攻めでは寺の東側にあった野口城で秀吉軍と毛利側の野口城兵・教信寺僧兵が戦いました。しかし、秀吉軍の前に野口城はあえなく落城。城と隣接した教信寺の伽藍は灰燼に帰しました。その後、伽藍は再建されましたが、幕末に再び火災に遭い、現在の本堂は明治時代に書写山円教寺の道場を移築したものです。

五社宮野口神社

野口城があったと言われるのが、教信寺の東側にある五社宮野口神社です。
今は静かな神社で、城の痕跡はほとんど残っていません。
神社の前を通る旧西国街道が、かつての姿のままなのか、緩やかな曲線を描いて東西に伸びていました。
播磨の運命、そして、日本の歴史を左右した戦いの行なわれた当時に思いを馳せながら、帰途に就くことにしました。

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