せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

運命の軍議・加古川評定の地を歩いて(前編)

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春は名のみで寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
こんにちは、内膳正です。

大河ドラマ「軍師官兵衛」が盛り上がっているところ、歴史部でも黒田官兵衛ゆかりの地を強化しています。

官兵衛で盛り上がる加古川 

今回訪問したのは加古川。
加古川は官兵衛が活躍した土地であり、また、官兵衛の妻・光姫の故郷(詳しくはこちら)でもありますので、大河ドラマの放映に合わせて盛り上がっています。
加古川駅前から伸びる商店街にはかんべえくんとてるひめちゃんのイラストをあしらった幟が立ち並んでいました。

称名寺

商店街を抜けて街並みを歩いていくと、大きな敷地を持つ寺院にたどり着きました。
こちらは称名寺という真言宗高野派の密教寺院です。
創建年は不明なのですが、聖徳太子の建立とも言われる非常に長い歴史を持っているといわれています。

不動堂

境内にある不動堂はちょっと変わった建物。
何だか本堂よりも目立つ建物です。
この建物、二層造のように見えて上層には欄干まであるのですが、二層目に見える部分は護摩壇の煙を逃がすために吹き抜けになっているようです。なんちゃって二層造とでも言えましょうか。

この称名寺、現在の境内はかつてこの地にあった加古川城の跡地に建っています。
加古川城は平氏討伐の功で糟屋有季が源頼朝からこの地に所領を与えられ、承久の乱の後の承久3(1221)年糟屋有教が城を築いたのが始まりとされています。播磨でもかなり古い城なのですが、関ヶ原の合戦後に廃城となり、今では痕跡はほとんど残っていません。ちなみに、この糟屋氏は相模糟屋荘(現在の神奈川県伊勢原市)の出とされ、所謂東国御家人の家柄です。

加古川城を印象付けるエピソードが、天正5(1577)年に開かれた中国の毛利氏討伐のために秀吉がこの城に播磨の城主たちを集めて開いた軍議「加古川評定」です。
戦国時代には三木別所氏御着小寺氏龍野赤松氏の三大勢力が小競り合いを続けていた播磨ですが、官兵衛の働きかけがあり、一旦は織田側につくことでまとまりまっていました。しかし、この加古川評定の際、秀吉の家柄を軽んじた別所山城守賀相が秀吉の不興を買ったために軍議が決裂。賀相が三木城主の別所長治に信長への謀反を促したために別所氏は毛利側に付くことになります。当時、播磨の中では最大の勢力を持っていた別所氏が毛利側に付くことになり、多くの城主たちは一転して毛利側に傾いていくことになりました。毛利に翻った播磨の諸城主を信長は容赦せず、織田軍による猛攻撃が始まり、三木合戦詳しくはこちら)へとつながっていくことになります。いわば、この加古川評定が戦国時代の播磨の運命を決めたと言っても過言ではありません。

称名寺の境内

そんな歴史の舞台になったことが嘘のように、境内は静まり返っていました。

称名寺の周辺には官兵衛にまつわる史跡が他にもあります。加古川をもう少し歩いてみたいと思いますので、次回に続きます。

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A:加古川駅
B:称名寺

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