せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

四十七士と塩の町・播州赤穂を歩いて(後編)

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こんにちは、山陽沿線歴史部の内膳正です。
10日前の「赤穂義士祭」110回目ということもあり、大変な賑わいだったようですね。
歴史部でも、前回に引き続き、播州赤穂の街を歩いてみることにしました。

城下の街並み

赤穂は赤穂浪士が有名になってしまっていますが、 姫路、明石、龍野と並ぶ播磨有数の城下町であり、今でも当時の風情が残されています。整備された通りから横道に入るとこんな景色が。板壁の街並みと突き当りの寺院が何ともいい雰囲気です。

花岳寺

城下町を歩いていくと、花岳寺という寺院に到着。
こちらには、四十七士の墓所があります。
静かで趣のある寺院ですが、赤穂浪士ファンの参拝が絶えません。

息継ぎ井戸

花岳寺から近い道路沿いにはこんな井戸がありました。
こちらは「息継ぎ井戸」と呼ばれています。
松之廊下の事件の5日後の元禄14(1701)年3月19日、事件を知らせるために江戸から赤穂へ早駕籠で戻った赤穂藩士の早水藤左衛門萱野三平の二名がこの井戸で水を飲んで一息ついたと言われていることからこのように呼ばれているそうです。
が、ここで問題…と言うほどでもありませんが、ちょっと気になるところが…。
赤穂の城下町は地図で見るとかなり海沿いの低地にあります。
赤穂城などは、現在は埋め立てによって内陸にあるように見えますが、江戸時代の当時は千種川の運んできた土砂で岬のようになった土地にあるという立地だったようで、とても井戸で真水が出るようには見えません…。
事実、赤穂の町で井戸を掘ると海水の混ざった水しか出てこないようです。
では、この井戸は一体…?

百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます)

実は、赤穂の城下町には上水道が敷かれていたのです。
江戸時代の上水道と言うと、玉川上水等の地名が現代でも残る江戸の物が有名ですが、江戸と、ここ赤穂、備後の福山のものを合わせて「日本三大上水道」と呼ばれていたそうです。
城下町の傍を流れる千種川から水路を引いて、城下町の北にあった百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます)でろ過をしてゴミを取り除き、各戸へと給水されていました。「息継ぎ井戸」もその一つです。
仕組みとしては何だか単純な物ですが、この上水道が完成したのは元和2(1616)年と言われ、同時期のヨーロッパの大都市では上水道がほとんど発達していなかった(紀元前から整備されたローマ水道がありましたが、この時期には多くが放棄されていたようです)ことを考えると、驚くべきことです。四十七士だけではない、赤穂藩の先進性が窺えます。
播州赤穂駅への道に百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます)の跡が示されていました。

赤穂と言えば「忠臣蔵」!
しかし、視点を変えてみれば違った赤穂の姿も見えてきます。
年末の忙しい時期ではありますが、赤穂でちょっと一息、歴史に触れてみるのもいかがでしょうか。
そろそろ牡蠣も美味しい時期ですし…!

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