せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

播磨が見た戦争~加古川飛行場跡を歩いて(前編)

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残暑の頃、いかがお過ごしでしょうか。
山陽沿線歴史部の内膳正です。

日本の8月は、お盆の季節であるとともに、戦争のことを振り返る季節でもありますね。
日本だけでなくアジア太平洋の諸国を巻き込み、多くの犠牲者を出した68年前の太平洋戦争は、もちろん山陽沿線の地域でも無縁ではありません。

播磨での戦争の跡を辿るべく、今回は加古川にあった軍の飛行場、加古川飛行場(尾上飛行場)の跡を歩いてみたいと思います。

尾上駅跡

スタートは山陽電車の尾上の松駅
ここにはかつて、山陽電車と並行するように国鉄高砂線(加古川駅~高砂駅間)が走っていて、この地には尾上駅がありました。高砂線自体は1984(昭和59)年に廃止となりましたが、今でも、緩やかにカーブした道路が鉄道がこの地にあったことを物語っています。とりあえず、高砂線跡の道路に沿って東へ向かうことにします。

分岐する線路跡

尾上の松駅からしばらく行ったところで高砂線跡は山陽電車の線路をくぐって加古川駅の方へ向かうのですが、山陽電車との交差部の手前にフェンスで囲まれた不自然な細長い空地がありました。何だか、高砂線跡から分岐していくように見えなくもありません。実はこの空地、高砂線から分岐して加古川飛行場へ向かう引込線が計画されていた用地だと言われています。ただし、結局、引込線が完成する前に終戦となり、日の目を見ることはありませんでした。

引込線は続く

住宅の間や田畑の中を引込線の用地は続いていきます。 本線の高砂線も、目的地の加古川飛行場も、とっくの昔に消えてしまったというのに、完成しないまま終わった引込線予定地だけがしっかりと残っているのがなんだか不思議ですね。

森の中へ

所々途切れながらもかなりはっきりと残っていた引込線予定地ですが、突如としてフェンスに阻まれました。フェンスの向こうは鬱蒼とした森が広がっています。この森が加古川飛行場だったのでしょうか。今は工場用地となっているようで、一般の立ち入りはできません。

加古川飛行場は1937(昭和12)年に陸軍が開設した飛行場です。尾上村(現在の加古川市尾上町)にあったことから、「尾上飛行場」とも呼ばれ、三本の舗装滑走路が三角形の形状で交わっていたことから「三角飛行場」とも通称されました。長いもので1,500mの滑走路を5本も備え、関西地方の防衛拠点となっていたようです。太平洋戦争末期には関東方面から九州は知覧の基地へ向かう特攻隊の中継拠点としても機能し、この地から出撃した特攻隊もあったそうです。

1945(昭和20)年の終戦で軍の飛行場としての機能は失いますが、終戦後も遊覧飛行の飛行場や自衛隊の訓練所として使用され、1950年代半ばまで滑走路の姿が残っていたと言われています。

飛行場跡は今

現在、飛行場跡は工場や商業施設になりました。上の写真の位置には滑走路の一部やエプロンがあったようなのですが…。残念ながら、何の痕跡もありません。

ちなみに、この日はこの夏一番の暑さ。既にヘロヘロ状態ですので、商業施設内にある某スーパーで涼みつつ水分を調達することにしました。一休みしてから引き続き歩いてみたいと思います。ということで、次回に続きます。

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A:山陽電車尾上の松駅
B:引込線予定地の分岐
C:引込線予定地の終点
D:飛行場跡の商業施設


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