せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

幻の中世都市・英賀を訪ねて(中編)

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こんにちは、内膳正です。
前回に引き続き、英賀を巡っていきたいと思います。

英賀神社

明蓮寺から住宅地を北へ歩いていくと、鬱蒼とした森が現れました。英賀神社の森です。
英賀神社ははるか古代の創建と伝えられる非常に古い神社で、『播磨国風土記』にもその名が現れているようです。英賀彦神英賀姫神を祭っていて、この二柱の神の名前が「英賀」という地名の由来と言われています。

昔の数学

古い額が所狭しと掲げられた拝殿でこんなものを見つけました。
これ、何だかわかりますか…?

実はこれ、数学の問題なのです。
和算と呼ばれるこの日本独自の数学は江戸時代から明治時代に西洋数学が入ってくるまで、庶民の間で流行したと言われています。
当初は商人や土木・建築系の職人が用いる実用的なものだったようなのですが、いつしか、実用から離れたパズルのようなものとして庶民の間で楽しまれるようになりました。中でも播磨は特に和算が盛んだったそうです。難しい問題が解ければ、こうして算額にして神社に奉納していました。明治12年12月と書かれたこちらの算額はどうやら平面幾何の問題のようなのですが…、私には全然わかりません…。

『播磨灘物語』文学碑

境内にはこんな石碑が。黒田官兵衛が主役の司馬遼太郎『播磨灘物語』は司馬遼太郎の先祖が英賀城に籠城していたという伝承から着想を得て元に書かれたそうで、そのことを記念した文学碑が1991(平成3)年、ここ英賀に設けられました。裏面には『播磨灘物語』のあとがきの一節が記されています。実は、『播磨灘物語』の中で英賀について触れられた記述はそれほど多くないのですが、黒田官兵衛を取り上げた代表的な小説の発祥の地として、これから注目されるかもしれません。

英賀城土塁跡

神社を一回りしたところで、中世・英賀の探索の再開です。まずは、神殿の裏手でこんなものを発見。石碑には「英賀城土塁」と書かれてありました。木の生えている土盛りが英賀城の土塁のようですが、かなり風化しています。

英賀城公園
さらに神社の裏手から出ると、公園が広がっていました。この公園はその名も「英賀城公園」といいます。こちらには、石垣がありました。しかし、石が何だか新しいように見えて、場所も怪しいので、本物なのかどうかはわかりません。英賀城落城で町が破壊された後も、英賀の田畑にはこのような石垣や土塁の跡が多数残されていました。しかし、これも現代に入ってから沿岸の工業地帯造成と区画整理でほとんどが取り壊されてしまいました。

野中口跡

公園の隅にはこんな石碑もありました。
中世の英賀は夢前川のデルタ洲に造成された町で、東西を夢前川水尾川、南を播磨灘に囲まれ、北には大木之濠(おおきのほり)と呼ばれる堀が築かれていて、地形を利用した環濠都市の姿を備えていました(前回記事の地図参照)。大木之濠にはこの野中口をはじめ、10か所の橋と木戸口が設けられていて、それぞれの門には門番を置き、城と町の防衛体制を整えていたとされます。城と町が一体となった街づくりは、どこか、ヨーロッパの都市を思わせるものがありますね。
この野中口は英賀のほぼ北端に位置します。ここからは南へ戻ることとしましょう。ということで、次回に続きます。

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