せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

亀山御坊を訪ねて(後編)

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こんにちは、内膳正です。
前回、亀山御坊を訪ねて…と言っておきながら亀山御坊に着いたところで終わってしまいましたが、今回はしっかりと紹介させていただきます。

本堂

大門をくぐると現れるのは亀山御坊本徳寺の本堂(仮御堂)
創建当時の本堂は焼失してしまったそうで、今の建物は明治2(1873)年に京都の西本願寺北集会所を移築したものです。
破風の装飾が目立つ妻入りの様式なのが、寺院としては珍しいですね。
周りに大きな建物がないこともあって非常に大きく見えます。

刀傷

西本願寺北集会所
は幕末の一時期に新選組の屯所にもなっていたそうで、柱には当時、新選組の隊員がつけたとされる刀傷が残っています。

太鼓楼

境内にはこんな建物も。
こちらは太鼓が収められた太鼓楼とのことです。
何だかお城みたいな建物ですが、これには歴史的な背景がありそうです。

実は、もともと本徳寺はここ亀山ではなく夢前川河口の英賀にありました。
本徳寺の属する浄土真宗(一向宗)は各地で寺内町と呼ばれる寺院を中心とした都市を形成していて、英賀は最西端の寺内町とされていました。
当時の一向宗は既存の仏教勢力や織田信長をはじめとする一部の戦国大名と激しく対立していて、英賀もたびたび書写山圓教寺などの攻撃を受けていたとされています。英賀では櫓や見張り台を設け、そうした攻撃に備えていました。

一向宗の西日本における拠点として栄えた英賀の最後は天正8(1580)年に始まった秀吉の英賀侵攻でした。
毛利氏を討つために中国地方へ兵を進める羽柴秀吉軍が毛利側についていた英賀を攻撃。英賀城主・三木氏が秀吉軍に敗れたことで英賀の町は降伏し、町は徹底的に破壊されました。英賀の町人は姫路に移され、町の中核だった本徳寺をはじめとする寺院は羽柴秀吉の政策によって周辺各地に強制的に移転させられ、一時は播磨最大の都市とも言われた英賀は完全に消滅しました。

この太鼓楼は近世に造られたものとされ、英賀合戦とは直接関係ありません。しかし、戦いの合図に打ち鳴らされたと言われる太鼓を中に収め、まさに城郭の櫓というその姿は要塞都市としての中世の寺内町の姿を思わせ、本徳寺が経験した戦いの歴史を物語っている…と言うと言いすぎでしょうか。

長屋門

本徳寺の重厚な歴史に触れた後は、北門から帰ることに。
こちらは立派な長屋門です。近世に造られたものと言われますが、これほど立派な長屋門は姫路城下でもあまり見かけません。
一部は学習塾になっているようで、今なお現役のようです。

北門から出た後は、しばし亀山の町を散策してもいいですし、亀山駅から姫路へ出て、現代の街を楽しんでもいいかもしれません。少し長くなってしまいましたが、亀山御坊の散策もこれで解散とさせていただきます。

前回、勿体つけた亀山御坊成立の秘密は、秀吉の政策ということでした。
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