せっつ・はりま歴史さんぽ|山陽沿線歴史部

妻鹿に黒田官兵衛を見た~前編~

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こんにちは、左馬頭(さまのかみ)です。

2014年(平成25年)大河ドラマの主人公「黒田官兵衛」を求めて、ゆかりの地といわれる山陽電車妻鹿(めが)駅周辺を散策することにしました。なお、写真は昨年(2012年)12月末のものです。

同行した“あまQ”くんの記事はこちらから。

体育会系歴史部としては硬派に行きたいと思っています。

まずは、市川橋梁からの国府山城(こうやまじょう)です。
国府山城は妻鹿城(めがじょう)、功山城、甲山城などいくつかの呼び名があります。国府山は播磨国府が近いことと関係があるのでしょうか。甲山は硬そうな山を連想します。登ってみてわかったのですが、確かに岩山に築かれた城です。

妻鹿駅改札前では、最近設置された黒田官兵衛に関する看板が目を引きます。国府山城への道筋をチェック。

城山のふもとの荒神社まで、市川沿いの道を約10分ほど歩きます。

荒神社横には、妻鹿城址の立派な石碑が。

ここが登山道の入口で20分ほど山道を登ります。夏に訪れた時は登山道がどこかわからないほど草木が生い茂っていましたが、最近手入れされたようです。それでも軽い登山になるので、歩きやすい服装で上ってくださいね。

案内標識を見落とさないように。


本丸跡?につきました。倒れかけの看板

かなり年季が入っていますが、興味津々です。標高約100メートルの甲山に築かれた城だけあって、見通しはかなりのものです。守護大名赤松氏の本拠である置塩城(おじおじょう)や、三木氏の居城、英賀城(あがじょう)まで十分視界に入ります。この看板には記載がないのですが、海上交通の要衝、室津にあった室山城(むろやまじょう)も有視界だったようです。江戸時代以降の埋め立てで海岸線は南にシフトしていることを考えると、戦国時代は国府山城が海上交通と河川交通の結節点である市川河口に位置していたと思われます。かなり重要性は高かったのではないでしょうか。

本丸跡からの眺望です。約4.5キロ先の天空の白鷺姫路城)をはっきりと視認することができます。


黒田官兵衛と父、職隆(もとたか)が、羽柴秀吉に姫路城を譲って国府山城に入ったのが、天正5~8年(1577~1580年)頃といわれています。この時期、官兵衛は秀吉の軍師として三木城攻めに従事、さらに叛旗を翻した荒木村重説得のために訪れた伊丹有岡城で1年余幽閉されていました。有岡城から救出された後も、官兵衛は秀吉と共に各地を転戦することになるので、実質的に国府山城にいた期間は短かったのかもしれません。おそらくは隠居した父、職隆が留守を預かり、領民とのコミュニケーションをとっていたのではないでしょうか。

官兵衛を支えた家臣の中で、特に優れたものを「黒田二十四騎」と言いますが、妻鹿出身といわれる母里太兵衛(もりたへえ)など、その多くが播磨から輩出されていることは、官兵衛と妻鹿の関係を示しているといえるでしょう。

我々は歴史の結果を知っていますが、当時、織田信長の先進性に目をつけ、秀吉に居城を譲るという官兵衛の行動は離れ業に違いありません。

さて、国府山城をあとにして、元宮八幡神社へ(約30分)。

御旅山の山上に移る以前の御旅山八幡神社の元宮であったそうです。境内には藤棚(写真右側)が。5月がシーズンでしょうか、色づいた頃に来てみたいです。

続いて、黒田職隆廟所

地元では「チクゼンさん」と呼ばれて親しまれているそうです。

官兵衛の父、職隆について少しだけ、
官兵衛の蔭に隠れがちですが、職隆も温厚で優秀な人物であったといわれています。元々黒田氏は職隆の父、重隆(しげたか、官兵衛の祖父)の時代に播磨に移ってきて、“目薬”の販売で財をなし、この地域を支配していた小寺氏(こでらし)に仕えます。職隆は、小寺氏の家老として姫路城を預かるなど、外様の家臣としては異例ともいえる出世をします。職隆自身が小寺氏当主の息子であったという説まであるくらいです。ともあれ地盤を官兵衛に譲り、国府山城で留守を守り、天正13年(1585年)亡くなったと伝えられます。

少々長くなってしまったので、妻鹿の町並み散策は後編とします。

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